はい、今回は
「生産的かどうか」ということで、
2人の経済学者の見解を参考に
「(社会的に)生産的」という意味を考えてみましょう♪
まずは
アダム・スミスという経済学者の考え方から。
アダム・スミスは
「生産的労働」と
「不生産的労働」の違いを主に
『モノを作り出す力かどうか?』で判断していたようです。
モノ、たとえば
鉄鋼を作る仕事は
鉄鋼という
労働が終わったあとでもしばらく存在するモノを作っている、
だから
鉄鋼を作る仕事=生産的 という分類になります。^ー^
では、
召使いが主人に対して行う奉仕はどうでしょうか???
これは
何か形あるモノを生み出す仕事ではありませんね。^_^:
なので、
召使いの奉仕=不生産的 という分類になります。
↑この2つの例はそれなりに納得できると思います、
鉄鋼が増えるというのは社会的に富が増した感じがしますが、
召使いの奉仕が社会的に富を増したとは考えにくいですから。^〜^:
アダム・スミスの生きた時代はちょうど18世紀、
産業革命の時代ですから
他の時代以上に
モノがどんどん増えていくことが『富』と感じていたのかもしれません。
一方、産業革命の時代にあっても
召使いの労働やら、何の働きをしているかもわからない官職など、
そういう
なんとなく社会的に無駄に見える労働も残っていたようです。^〜^:
だからあえてアダム・スミスは
「モノを作る力=生産的」と、目に見える形にこだわったのかもしれません。
ただですね、その目に見える
モノというのにこだわると、
近代社会に不可欠な専門職まで不生産的になってします。
どういうことかというとですね、
たとえば
医者、オペラ歌手、俳優、教師、裁判官なんてのを考えてみてください。
これらは確かに
目に見えるモノは作り出していないかもしれませんが、
だからといって
これが社会的に無駄な不生産的労働かというと、
そういうわけでもない気がしませんかね?^_^:
もしそれらを不生産的として軽んじていては、
私にはかえって社会的に良くない状況になりそうな気がします。
このような視点を踏まえて、
ミルという経済学者はもう少し違った分類をしてみることにしました。
モノを作り出すことも確かに生産的といえます。
が、もう少し広くそれをとらえて
効用を生む仕事を全て生産的労働ということにしてはどうでしょうか?
(効用・・・おいしいとか気持ち良いとか幸せとか、そういう良い要素のこと)
たとえばですね、
医者は患者の病気を治すことで患者の
効用を増やしている、
オペラ歌手は歌を観客に聴かせることで
観客の効用を増やしている、
俳優は演技を観客に見せることで
観客の効用を増やしている、
教師は―――
というように、
アダム・スミスの分類では不生産的とされたものも
ミルの分類では生産的といえますね♪
(効用を生み出しているから)
で、現代の感覚だと
ミルの考え方のほうが支持されやすいでしょう。
「社会的に生産的」とか
「富が増える」というのを
『モノが増える』ことのみで測るのは、多分多くの人にとって抵抗があるでしょうから。^_^:
やはり我々が「社会的に良い」と思う状態というのは
「幸せだ、おいしい、気持ちいい、安心」などなど、そういった
効用がいかに多い・高いか?ということだと思います。
そういう意味で、
生産的(価値あること) = 効用を高めること
というミルの考え方は、現代にも十分通ずるものだと思います。
※ちなみに、ミルが生きた期間は1806年〜1873年です。
次回はパレート効率という話をします☆^○^
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